ちょわのススメ
突然ですが「ちょわ」をご存知でしょうか。
「ちょわ」はとても便利です。
なんだか突然テンションが上がってしまった時には「ちょわー!」と叫び声になり、
あんまり真剣に言ってしまうと角が立ちそうな話題では「いきがくさいちょわ〜」と和ませ、
びっくりした時にはかわいく「ちょわっ!?」とおののき、
恋人になつきたい時には「ちょわわ〜」と動物のようになつき、
風邪でもうだめだ体が動かないという時には「ちょわっ!」と一喝することでテンションをあげ、
つらくて泣きたいときには「ちょ……ちょわ……」と悲しそうな声を出すことで親しい人に黄色信号を伝えることができます。
カラオケが日本人にあたったのは、ひとえに「自分の声を思い切りだす瞬間」が少ないからのように思います。
公共の場では静かにしよう。会社学校ではうるさくしないように。居酒屋で大声だす客は迷惑だ。どれも正しいんですけど、でもそのせいで「自分の声を思い切りだす」ことをためらう人は多いような気がします。特に周りを気遣う人ほど。
(もちろん会話相手のことを考えてはっきり伝わる声でしゃべることも大事なのですが、それってあんまり重視されないような気がします。狭い場所に家が密集するからか基本的に「気遣いする=静かにする」になってるんですよねー)
はっきりとためらいなく自分の声をだすのは気持ちがいい!
でもしみついたうるさくないようにしなきゃ癖はなかなかなおらない。
そこで、「おうちちょわ」です!
眠いのにうっかり書き始めてしまったのでちょっと支離滅裂ですが、いたって真面目です!
ためしに「ちょわー」と、ちょっとぼやっとした感じで言ってみましょう。その音のまぬけさになんだかフフっとなるかと思われます。「ちょちょわちょわ!」「ちょわぴょろ〜」など変化させていくと、さらに間抜けな気持ちになります。あとは思うままに「ちょぺー」とか「ちょっぽっぽ!」などと言いましょう。
おそらくとてもリラックスします。悩みすぎるのあほらしいなーという気持ちになります。でなければものすごく虚しくなります。
どちらになるかはその人次第!!
瞑想や運動や野菜は、実践してみて個人的にかなり良いと思ってますが、めっちゃ真面目な人は逆に「やらねば!」と意識してガッチガチになるかもしれませぬ。
なにはなくともまずはリラックス。騙されたと思ってためしにいかがでしょうか♡
(「ちょわ」以外には「もひょー」「のーん」「わっふっふ」「ぬんすぬんす」などもおすすめです)
「この世界の片隅に」感想(ネタバレなし)
すっかり放置気味だったので久々に!
今年は多分にもれず、「シン・ゴジラ」→「君の名は」→「この世界の片隅に」と話題作を覗きに行きました。それぞれ思うところはありましたが、中でもこりゃ何か書かねばなならんわ……!という気にさせてくれたのは「この世界の片隅に」。
戦争ものかー、なんでそんなに評判いいのかな?くらいの気持ちで見に行った「この世界の片隅に」。
DVDで片渕監督の前作「マイマイ新子と千年の魔法」を見ていたので、とりあえず牧歌的な話なのだろうなと思っていたら、まさにその通り。お話はしずかにやさしくとんとんすすみます。
そして気づけば見終わっていました。
126分という結構な長さの映画。それなのに、腰いたいなぁとか、後半トイレ行きたくなったらどうしようとか、買ったお茶飲まなきゃ、とか思ったりする暇は一切なく、終わっていました。
はっと夢から覚めたような気分。多分、見た人はわかってくれるんじゃないかな。
灯りがついてしばらく、余韻に浸ってぼーっとしていました(真ん中の席で、急いで立つ必要がなかったので)。
するとなにやら、出て行くお客さんの顔がよく目に入る。
そしてなぜか、その人たちをものすごく近しく感じる。知らないおじさんおばさんやカップルや大学生に対する見方が明らかに変わっている。他人に見えなくなっている。
すごく不思議な体験でした。でもこの映画を見たのならば、必然的な体験だなとも思いました。
「この世界の片隅に」は普通の人の話です。主人公のすずさんも、その周りの人も、みんないたって普通。能力や容姿や性格に多少の違いはあれど、その時代やその時代のルールの中でそれぞれ普通に幸せになるため生きようとしている。
大事な人は失いたくないし、美味しいものを食べたいし、好きな人とはキスをしたいし、苦しくてもなんとか笑って生きていたい。死ぬのは怖い。根っこは全然変わっていない。今も昔も。
だからか、ごく自然に周りの人たちに対して、「ああこの人たちと私はおんなじなんだなぁ」「みんなみんなここに生きててよかったなぁ」と、うっすら笑顔になれました。うーん、まるでベタな言い回ししかできなくてもどかしい……!でも同じような体験をした人はきっといるはず……!
「マイマイ新子」を見た時にも思ったことなのですが、片渕監督は「過去と現在をつなぐ」ことをすごく大切にされているのだなと思いました。過去を「過去の物語」にしない、とでもいうのかな。今と過去を地続きにしてくれる。
広い縁側のついた家に近いかもしれない。見る人がすーっと入り込めるようになっていて、気づけばいつの間にか奥の奥まで入っていて、「ああ実家みたいだな」ととっぷり浸かっている。
「押し付けがましくないからいい」という意見はまさにその通りですね。「物語の中に導かれる」感覚がとっても心地よかったです。こんな映画体験あるんだ!とびっくりびっくり。
月並な結論ですが、文句なしに素晴らしい映画でした!迷わず映画館に!
しかしどういうことをしたら、こんな風に人の心に寄り添った映画が作れるんだろう?
ものすごいものを観てしまった
映画「レヴェナント」みてきました。ディカプリオがんばったんだってなー!見てみっか!くらいの気持ちで行ったのですが、
なんという神秘体験をしてしまったのか……
構成としては今ちょうど読んでいる「老人と海」と近いかもしれない。
「老人と海」のストーリーは一言で言ってしまえば「じいさんががんばって魚釣る」。「レヴェナント」のストーリーも一言で言えば「お父さんががんばって復讐劇」。
見るべきはストーリーと一緒に展開される体験や追想だと思ってもらったほうがピンとくるかも。(「ストーリーの面白みに欠ける」というレビューも見かけたので)
「老人と海」を読み進めていくと、網をたぐる方法や、魚のとり方一つ一つに、サンチャゴの生き様がじわじわと見えてきますが、「レヴェナント」も同様で、主人公・グラスの無言かつ必死の行動から、心中の機微がこれでもかっ!これでもかっ!と見えてきます。無言なのに目覚めるシーンを見るたびに「なぜ自分は死んでしまっていないのだろう」という悲しいモノローグが聞こえてくるような気がします。
人物の胸中をいろいろと想像しながら見るのが好きな人にはぴったりぴったりな映画。
とにかく音楽と映像と人物の演技とが一体になってズイズイ迫ってくる!特に自然がちょっとしたファンタジー以上の迫力を持っていて、森は怖いし雪は怖いし川は怖いし文明社会に生まれてよかった……とちょっと涙目になるくらいでした。
みどころはなにはなくともグラスVS熊。絶対に熊に会わない生き方をしようとかたく心に誓いましたとさ。
2時間30分の鑑賞後は、まずまちがいなく腰の痛みがくるので入浴必須。
とりあえず30歳にして9回目の転職活動をして「いい加減ぴったりくる会社に入らないと死んでしまう」と泣きごとを言う我が兄にオススメしてあげようと思いました。
人間その気になれば死なない。(多分)
あいってなんだ
ダントツ切れ味のいいこちらの記事から思ったことをつらつらと!
いやあキラキラ被ハラスメンツモテ女子の精神的な動きがここまでわかりやすくスパッスパーーっとわかるなんて気持ちがいいなーー!とりあえずキラキラ被ハラスメン略友人に見せなければなーーーー!(泣)
で、個人的にはこのフレーズに注目。キレッキレの部分ではないですがズンと響きました。
じゃあ何が愛なのさ?って言われると一言では言えないですが、私にとっては、自分の尊厳と相手の尊厳両方に敬意を払うこと、どちらかに負担を強いることのないサスティナビリティが必須です。
うまく引用機能が使えたぞ!で、サス……なんだって?と思ったのでとりあえずウィキウィキ。
サステナビリティ 「持続可能性」を意味する“Sustainability”のカタカナ表記。 環境保護活動分野でも使用されることが多い用語で、近年は企業活動分野でも用いられている。 企業分野では、利益を上げるだけでなく社会的責任を果たすことで、将来においても事業を存続できる可能性を持ち続ける、という意味で用いられる。
ほうほう。つまり「互いの尊厳への敬意を持続させる」ことが大事っちゅーことですね。
…………いやほんとこれです。愛の根っこには尊重がある。
反対に人がいさかうのは十中八九、相手をナメくさるからもしくは相手をやっかむから。「これだから女は」とか「Fランがいってもな」とか「童貞がいうな」ですね。
記事内でもそっと言及されてますが、尊重思考が身につくかどうかは、主に「親が子供を個人として尊重できているか否か」で決まってくるように思います。信用しない、任せない、ずっと子供扱い、最悪親の所有物扱いする。そういう風に扱われると、親(他者)の評価によってしか尊厳を得られないようになってしまうのですよね。
そうすると「個人の尊重」なんてどこへやら、やれあいつは年収が低いだの、役職が低いだの、顔がぶさいくだの、身長が低いだの、おっぱいの形が変だの、伴侶がダサいだのと言い出す。「全体の中での自分」が上がった気になるので。よくいう「あいつよりマシ」思考。
……暴言を吐く人は、この世に「個人のヒエラルキー」が存在すると固く信じているよなあ。
私の行った高校は、まあまあの進学校(大半は早慶以上に行く)だったのですが、これがまあ全くといっていいほどヒエラルキーがありませんでした。みーんな対等。先生も超フランク。
振り返って考えるとやっぱりみんなわかってたんですねー。「勉強能力の上下」「運動能力の上下」「性的魅力の上下」などがあっても、「人間の上下」なんてないってことが。
成績が低いこと、運動ができないこと、容姿が悪いこと、すべて蔑まれる理由にはなりません。だから周りには悪口ってものがほとんどありませんでした。あるのは要望くらい。いい学校だったな……。
(私自身はこのあとさらに、愛をしっかり理解してなおかつ実践できるそれはそれは誠実で素敵な方と恋愛することができたのが幸運でした。彼がいなければ「人間なんて自分が一番可愛いもんよなぁ」と今も思っていたようが気がします。)
恋愛において必要なものは、「個人の尊厳への敬意」以外にもいくつかあるとは思います。
でも、どんな人間関係も尊重なしには立ち行かない。逆に言えばこれさえわかれば、愛を持っているも同然なんですよねーたぶん。
小さいころから学んできた人にとっては今更なことでしょうが、こんな当然なことを感じられないまま大きくなってしまう人はきっとすごく多い。とくに他人から言われた心無い言葉で、自分からヒエラルキーを作ってしまう人は多そう……(自分がそういうタイプだったからかもしれんが。)
他者の基準(それも大した根拠もない)を鵜呑みにして、勝手に自分を下に置いて、それを見返そうといらん努力に躍起になって、うまくいかないからヤケになって、みたいなね!グエー!
今になってみれば、なんで一方的に人を下に見てくるやつらのことなんて気にしていたのだろうな……。努力は自分のためにコツコツ楽しんでやったほうがよいのや……。
ぱぷりこさんの元記事は一見キラキラ女子を下に見ているようでいて実は悲しくこじれてしまったキラキラ女子を助けようとしているのが伝わってきて……これはもしや女神……(野暮)
なんか四方八方に思考がエビチリもうしましたが最後に。
私の知人に、公認会計士になりながらも20代前半の若さで自殺してしまった人がいます。
その人の父親は、東大に入れなかった息子を罵倒し、公認会計士になったあとも「お前はその程度か」と、すべて自分の基準で考えてずっと下に見ていたそうです。知人は見返そうと必死に働いて、容量オーバーをして、倒れられたならばよかったものをこれ以上落ちぶれて生きたくないという思いから命を絶ったそうです。
今になってみれば、知人は一番大切なものをもらえなかったのだなとわかります。
いつか運良く子供がうまれたら、愛について一緒に考えたいなー。
かるい善意おもい善意
ひとりごと。
この件は無知さと浅薄さゆえに悲しい結末になっちゃったけど、気軽な善意ってほんとうは結構いいものだよなあ。
というか、完璧な善意をもって行動するってなかなか難しい。
・未知の相手にも恐れずコミュニケーションをとる。
・科学的な知識を持ち、行動の後のことも予測する。
・相手の様子をよく見て臨機応変に対応する。
・それらを身につけたうえで面倒と思わず相手のために行動する。
ちょっと考えただけでもこれだけ必要!ぐえー!
相手に対して責任感をもって行動することはとっても大切なことだし、そういう真面目な人に私自身たくさん救われている。ありがたや。
でも「軽さ」に救われたこともたくさんあり。死ぬほど落ち込んでいた時に、ただクラスで目立ちたいだけの子のどーしようもないギャグに救われたし。
うむむーなんだかうまくいえないけど、みんなが善行は真剣にやらねば!と思って、気軽なおたすけを躊躇ってしまうのはいやだなーと。心構えや動機がしっかりしてなくたって何かのためになることはできるから。もちろん無知者が大胆な行動とるのは迷惑きわまりないけどね!
「一般的にためになることをする時に注意すること」とかそういうまとめ欲しい……(典型的マニュアル人間)。
ネガティブオタクのいきかた
こちらを読んで、思ったことをつらつらと。
漫画やアニメ、ゲームといういわゆる「オタク」のためのものが、芸能やスポーツやらと同じように消費されるようになって久しい今日このごろ。缶バッジじゃらじゃらの痛バッグとか、白昼堂々の街中コスプレとか、昔は遭遇しなかったようなオタクも増えてまいりました。
個人的にオタクという人種は好きです。
特に昔堅気なめんどくさいオタク。疎外されるつらさを身を持って知っていて、センシティブな感性を持っていて、なおかつ好きなものをとことん調べて貫きとおせる一途なところ、とかですね。
でもまーどうにも最近そういう方ほど生きづらいところもあるのかなと、元記事を読んで思いました。特にSNSなどは匿名なぶん悪意もモロ出しで、自分自身の強い意志をもって交流しないとモメることも多い。
というわけで、人間関係に疲れがちな人が多少楽になれたらいいなーという気持ちで、「コミュニケーションに疲れないための考え方」をお伝えしてみようと思います。
その1
「嫌われる時はどうしたって嫌われる」
コミュ強の友人が教えてくれました。「がんばってもどうにもならないこともある」。一見諦めの境地に見えますが、これは飲み込むとかなり楽ちん!
「周囲のみんなと正しく仲良くできる人」なんて相当な努力をしている一握りの存在だけかと。
(ピーギャーうるさいあいつらには友達がいる?彼らの多くはコミュニケーションそのものが好きor友達がいないと思われるのが怖いために漫画やアニメを媒介にしていることが多いので、あんまり気にし無いほうが吉です。そういう生き方もあります。声が大きいので目立つのがたまに瑕。)
コミュニケーションに疲れてしまう人は「みんなとなかよくできない自分は普通よりもダメな人間だ……もっと努力しなければ……」と思い込んでしまっている人が多いような気がします。
さらに努力して会話してみても「変なことを言ったから会話が途切れちゃったのでは?」とか「私が黙っていればみんな楽しく話せるだろうし我慢しよう……」とか「会話が途切れたらきまずくなるから話しかけるのはやめておこう」とか、とにかく「周りに迷惑をかけたくない」「変なことを言って煙たがれたくない」と恐れます。
実際のところ、リラックスできない会話は辛い。さらに言えば恐れてビクビク警戒しながらする会話ほど相手にとって辛いものはない。
リラックスして本音で話しているのに離れていってしまうのであれば、それはもう、自分と相手が合わないだけだと腹を括ったほうがいいです。
こわいのは「自分はみんなができるような会話ができない」「相手にあわせられない」と思い込んでガチガチになってしまうこと。
会話がうまくいかない理由なんてシチュエーションによってたくさんあります。
周りがうるさくてやや声が聞き取りづらい。相手が忙しく、午後の予定のことを考えていて気がそぞろ。ランチを食べるのが遅いので受け答えが早くできない。などなど。
「自分が会話が下手だから相手を不快にさせている」なんて思う前に、まずは「自分の性格や主張が受け入れてもらえない可能性もあるけど、それは誰にだってあることだ」と割り切って、自然な姿を見せていくのがSNSでも現実でも健全な交流の第一歩だと思います。
素直に話し自然体でいる人はとりつくろわない分、相性ぴったりの人が早く見つかる!
(気を遣われるのがいや。という気持ちもあるかもしれませんが、自分が気の遣いすぎて潰れちゃっては元も子もありませぬ。潰れてまで大切にしたい相手なのであれば思いを貫くのもよいやもしれませんが、多分相手がまともな人であれば、それで潰れたとなれば大変悲しむことになります。素直が一番)
その2
「『同じものを好きな人』だけではなく、『似た考え方の人』を見つける」
元記事では「最近のオタクは浅くなった」という言葉がありますが、ならば考察大好き!理路整然といた解釈大好き!な人とお近づきになればよいのではないかなーと思いました。
探せばけっこう考察腐女子はゴロゴロしている。本当にいつ寝てんの?ってくらい考察している。
もし同じジャンルにいなければ、気になる他のジャンルなどでも。もしくは自主的に考察ツイートをしていけば「原作至上かよ面倒だなー」と思う人もいればウキウキ乗ってくるRTしてくる人もいるはず。
「萌え!」だの「神!」だの「◯◯ちゃんペロペロ!」だのしかいわないで楽しめる人もいます。でもそれに馴染まなくたって問題ないです。だって楽しむポイント違うんだもの。
ジャンルやCPの枠にしばられ馴染めない空間に馴染もうと努力するのではなく、自分なりに居心地のいい人、共感できる考えの人を見つけていくのが精神的に良い気がします。悩み相談もできるし。
その3
「大事な人は誰か、大事なことは何か、優先順位をつける」
評価をしてもらうためには、自分の意志を曲げなければいけない時があります。
逆に自分の意志を貫くなら、評価がついてこないことを覚悟しなければなりません。
大人数とまんべんなく仲良く楽しむことを求めるなら、フラストレーションがたまることがあると受け入れる必要があります。
人間関係に悩まず平穏に暮らしたいなら、友達を少なくしなければならないこともあります。
どれを選んでもリスクはあります。「何をしても嫌なものがついてくるなんて、人生は最悪だな!」と昔の自分は思っていました。でも実際はリスクを覚悟して自分で好きな道を選んでいくのが、一番楽でした。本当に。
「二週間だけ、あいつを見返すために萌え死ぬような作品をかいてやろう」
「評価されないかもしれないけど、今週は自分の好きなものをいっぱいかく!」
「地雷ツイート見たくないから友達のAさんのツイートは今だけミュートして、後でいっぱいリプしよう」
「私にいつも優しくしてくれるBさんだけは喜ばせたい。でも自分のメンタルがやられるとお話しもできなくなるから、できる範囲でがんばろう」
などなど。期間を決めて、「今はこのリスクがあるけどこれをする!」と行動すると、他人のネガティブな反応にいちいち振り回されることがなくなるのではないかなと思います。
と……大好きな友人が以前同じように悩んでいたので、ついつい書いてしまいました。
同人が一大産業になり、界隈が大きく変わりお金が絡むようになって、変な人も増え、和気藹々とした雰囲気が薄れてきているなあと、ひしひしと感じています。
けれど、そういう心無い人に憎しみをむけるのではなく、近くにいる心優しい人を見つめていってほしいなあと思います。(自分もよく、どうにもならない「世間」のようなものに憎しみを持って時間も熱意も無駄にしていたので尚更に……)
必要以上に怖がったり、憎んだりすると、いいこたないですねー。困っているみなみなさまが、傷つけてくる馬鹿をはねのけて楽しく創作活動できるよう、かげながら祈っております!
(追記:ブクマありがとうございます!確かに私が書いたようなことはもう実践されてそうですね/////その他の、自分を責めがちな方に活用してもらえればいいな〜)