モャッパ!

生きにくいよを生きやすく

HUGっとプリキュアと「守られるもの」の力

今期プリキュア毎週楽しく見ております。

エンディングダンスも踊れるようになってきたので、そろそろ姪っ子の前でご披露といきたいところです。うまく踊れるか不安ですが、フレッフレッわたし!!

てなわけで、昨日からプリキュアが話題になってますね。

 

anond.hatelabo.jp

 

「男の子だって、お姫様になれる!」という言葉は、果たして呪いや欺瞞なのか?

ブコメ群を見ると、そもそも「お姫様」という言葉をみんな違う意味で受け取っちゃってるので、わけがわからなくなっているようです。

当然ですがここの「お姫様」が「王家の血筋をひいている女性で〜」みたいな意味であれば「そりゃなれんがな……」です。しかしまあ、あの話での「お姫様」がそういう意味ではないことは一目瞭然です。

それはそれとして、増田はお姫様を「受動的で、周囲から与えられられる結果でしか判断できない」「なので自分からはなれない」としています。

果たしてそれって正しいのかどうか。 

 

では、この話においての「お姫様」はどういう意味なのか。

ブコメの中には

"この話はファッションショー出演を巡る話で、「お姫様になれる」は綺麗な服でランウェイを歩く、くらいの意味しなかいと思われ。”

というものがありましたが、これはズレていると思います。

もしファッションとして「男の子もお姫様みたいに綺麗な格好をして歩いていいよ」という意味ならば、アンリくんは「既に」お姫様です。声をかけるとしたら「男の子だってお姫様だよ!」になります。

たとえばアンリくんが女性の綺麗な服を着ることをためらっている状態ならば、「お姫様になる=公の場で女性ファッションを着る」として、勇気を出せないアンリくんを応援しているセリフになると思いますが、アンリくんは既にランウェイを歩く覚悟ができています。周りに変だと言われる覚悟もできています。

自分で自分を縛らない生き方をすることを選んでいるアンリくんに、今更エールがファッション的な意味で「お姫様になれる!」なんて応援する必要はないのです。

 

ではここでの「お姫様」とは何か? 場面をを見てみると答えが出てきます。

 

・オシマイダーに襲われるアンリ。囚われて逃げ出せない。

アンリ『これ、ぼく、お姫様ポジションになっちゃってない?』

エール『いいんだよ! 男の子だってお姫様になれる!』

 

アンリくんはここで「お姫様」を「ヒーローに守られ助けられる、かよわい存在」という意味として使っています。

そして、ここが重要なのですが、アンリくんはそんな「守られる」自分を恥ずかしく思いごまかしたい、もしくは自嘲したい気持ちがあります。

普段のふるまいからするに、アンリくんは「自分を貫き、迷える誰かを導ける存在でありたい」のでしょう。

 

そんなアンリくんにエールは「男の子だってお姫様になれる!」と言います。

素直に受け取れば「男の子だって守られる存在になれる!」ということです。

でもこれ、ちょっと違和感がありますよね。

「お姫様だっていい!(守られてもいい)」ならともかく「お姫様になれる!(守られるようになれる)」は妙だと感じる人、少なくないと思います。

 

「守られるようになれる」って何だ?

「守られる」「助けてもらう」なんて誰にだってできることだろう、と。

ここをつきつめて考えていくとハグプリの本質、ならびに、あの言葉が呪いではないということが見えてきます。

 

 

ハグプリではかなり意識的に「守られるものの力」が描かれています。

イケてるお姉さんになりたい!と思っても失敗続きのはなは「はぐたんを守りたい」という気持ちでプリキュアに変身できるようになりますが、一方で、「自分には応援以外何もない」と自分の無力さばかり見つめてしまった10話では変身できなくなってしまいます。

つまり、はなは「守りたいもの」がないと何の力も出せないのです。

敵役だった時のルールーは、赤ん坊を守るプリキュアを見て「なんの力もない赤ちゃんをなぜ助けるのか」と疑問に思います。

しかし赤ん坊たちは守ってくれるプリキュアに無意識にアスパワワを与えてくれます。

そのように「守るもの⇄守られるもの」の間で力がグルグル循環してるんですね。

 

増田ではヒーローについて

「救った相手に足蹴にされたって、結果的に誰も救うことができなかったとしたって、誰からも称賛されなくたって、

ヒーローにはなれる。救おうと行動しさえすれば、その時きみはヒーローからだ。」

と述べています。

しかし、ほまれ回のはなは、ほまれを元気づけようと応援をしたものの届かず、むしろほまれを傷つけてしまいます。この時のはなの行動は、ヒーローの行動とは言い難いでしょう。

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”よかれと思ってとった行動が、その人にとっては何の役にも立たない。それどころか、追い詰めてしまう”、なんてことはよくあることです。

さらに増田では

「誰からお姫様として扱われず、自分けがお姫様だと主張する状況は、ただ悲惨であるという他ない。」

とも書かれていましたが、それはヒーローも同じです。

助けられたと思っている人が一人もいないのに「自分はヒーローだ」と主張しても、ただただ虚しいだけでしょう。

もちろん誰かを助けたいと思うこと自体は尊いです。ただ、助けたいと思って行動したとしても相手のことを考えない独りよがりで的外れな行動をしていてはせいぜい「おせっかいや」です。「守られた」と思う人がいて、やっとヒーローになれるといえます。

基本的に、ヒーローもお姫様も「人間との関係の中でうまれる役割」です。もし地球に一切の生命がなく一人きりだったらヒーローにもお姫様にもなれません。

お姫様の役割に他者の存在が必要なように、ヒーローにも他者の存在が必要です。

それこそが「受け取り手=守られるもの」です。

 (「自分を助ける」って考えもありますが、今回はちょっと脇においときますね。)

 

"「守られるもの」こそがヒーローに「守るもの」たらしめる力や勇気を与えてくれている”、ということをハグプリは伝えようとしています。

 赤ちゃんや女性は肉体の弱さゆえに「守られるもの」という役割を自然と与えられます。その一方で「守るもの」という役割はあまり与えられてきませんでした。

それをプリキュアシリーズははっきりと意識して改革し女の子に「守るもの」の役割をプレゼントしました。

そして今、肉体の強さゆえに「守るもの」にされがちな男性に「守られるもの」という素敵で大切な役割をプレゼントしたかったのではないでしょうか。

 

自立した、能動的な、ヒーローばかりが理想とされがちですが、もしもみんながみんな「守りたい!守られるのは弱くて嫌!」という人ばかりだったら、世の中は回っていきません。周囲からの助けを素直に受け取り、感謝し、明日を生きる力に変えていける受け取り手がいるからこそ、守る人も更に守っていくことができます。

 

「守られる」ことは立派な価値のある行動であり、だからこそ無力な赤ちゃん、病気の人、老いた人にも、生きる価値と力がある。

……とみんなが思えたら、社会ももうちょっと豊かになるんだろーなーなんて思います。

 

 さて!次回はルールーとえみるの変身回!プリハートは一つしかない!

 やっぱり互いのためを思って相手に譲ろうとするんだろうか……。自分の夢を抑えこんで相手の夢を叶えようとする二人の姿を考えるともう涙目……。

 

 

追記(2018.06.12)

www.byosoku100.com

 

家族に「かわいくない」「スカートが似合わない」と言われたことがあります。

男の子に「ブス」「キモい」「暗い」と言われたこともあります。

ネットでは「足の太い女がミニスカをはくな」「ブスの化粧は正直不快」「ブスには人権がない」なんて言葉があふれています。

昔の自分はこういった言葉を受け止めて、周囲の人をイライラさせないように、ブスならブスらしく地味にしていなければいけないんだ、と思っていました。

着てみたい服があっても可愛い子のように似合わないと悲しくて、試着することすら嫌になって、適当に服を買っていました。

だからとても美人が嫌いでした。生まれ持った「綺麗」だけで好きな服を着て、周りからチヤホヤされて、ありのまま伸び伸びと暮らせる。

美人がそばにいるとそれだけで自分が惨めな存在と思えました。

 

でもそれって10話のはなちゃんと一緒だったのです。

自分にないものばかり探し、自分にできることを見失って、可能性を閉ざしていました。

周りの人の声に耳を傾けるようになって、自分が周りより色白で肌が綺麗なこと、スタイルがそんなに悪くないこと、ニコニコ笑うと可愛いといってもらえることに気づけました。そして今は自分の着てみたい服、似合う服をちゃんと探せるようになっています。

 

先ほどの増田も、上記ブログの筆者は、とても昔の自分に似ていると感じました。

「醜い」「容姿が劣っている」人に、「お姫様になりたいという希望を抱いても醜い人はなれないんだよ、周囲が許さないし、笑われるし認められないんだよ」と、変身できるかもしれない可能性を奪ってしまっています。

ただ、その根本には、現実に容姿で辛い体験をした悲しみがあるのだと思います。

実際に、昔の自分は、嘲笑や拒絶ばかり受け止めてしまったあげく、自分が言われて傷ついたはずの「ブスのくせに化粧なんてすると自意識過剰だって笑われるよ」「好きな格好ができるのは綺麗な人だけだよ」なんて、いつしか他者に言ってしまっていました。

 

確かに、身長が低ければモデルになれなかったり、病気を持っていればメジャーリーガーになれなかったり、そういったある種の基準をクリアできないことはあります。

なのでもし「お姫様」を必ず「一定以上の人数に美しいと判断されるもの」と定義すれば、醜い人はお姫様になれないでしょう。

 

でも、もし「お姫様」を「守りたいもの」と定義したとすれば、増田も上記ブログ筆者もすでに自分の「お姫様」です。

読むうちにこの人たちの感じている悲しみをなんとか和らげたいなという気持ちが湧いてきて、仕事をしててもトイレにいってもご飯を食べていても「なんか書かなきゃ、なんか書かなきゃ!」という思いがドバドバ出てきて、こうして下手くそな文章を打つことになった次第です。長文にがて。

まあこれもただのお節介なんだよな……。別に悲しく思っていないかもしれんしな……。

それでも、マメにブログも更新できない面倒くさがり屋な自分を突き動かして力をくれたという点で、やっぱりあの方々は「お姫様」なのだと思います。

 

 追記の追記

文中で引用させてもらったブコメのangmarさんからコメントが!ありがとうございます。

実際途中まで「お姫様」はファッションとしての意味で使われていたので、「全くズレている」という書き方は適当ではなかったですね。すみません。

ファッションショーの話ではありますが、今回は終始「縛られず生きる」「自分のしたい生き方を愛する」って主張に重きを置いているので、ルッキズムの観点で見てしまえばツッコミ放題になっちゃってるんだと思います。

 

ルッキズムの話がプリキュアのテーマになるにはもうちょっと時間がかかるかな……。

「容姿で相手のあり方を縛り付けるようなことをいっちゃいけないよ!」くらいは教えてあげてほしい気もするなあ。などと思ったり。